多くの言葉が今に残されている。法話という形で。
一つ一つに意味が込められている。

人が死ぬとはどういうことをいうのでしょうか。
心臓が止まったときでしょうか、肉体が滅びたときでしょうか、あるいはその人のことを知っている人がこの世からいなくなったときでしょうか。
私たちは、花びらが散っても、その花が何色でどこにどのように咲いていたか思い出せます。また、大切な人が亡くなって、その方の肉体が滅びていったとしても、その方がどのように生き、何を大切にしておられたかは、共に生きた者の心に深くとどめることができますし、与えてもらったご縁やご恩は、私たちの中に生き続けます。
そうやって、いのちは縁となり下の世代にバトンのように繋がりながら、紡がれていきます。
近年では、「生きているうちが全て」「死んでしまったら終わり」と言われることもありますが、亡くなってからも繋がり続ける縁というものが確かにあり、 過去から紡がれたたくさんの縁に支えられ今の私がここに存在しています。
つまり、私が生きるということは、亡くなられた方の縁と共に生きていると言えるのではないでしょうか。
そして、そういう思いの中で生きていく限りにおいて、「形が滅びても、人は死なない」と言えるのだと思います。

生かされて二度とない日を今日も生く

お寺の掲示板等に掲げられる数々の法語の中で、この言葉ほど、グサッと心に突き刺さる言葉はないかと思います。
人間には、私の身に起こるあらゆる日常を「当たり前」 としてしまう悲しさがあるのかもしれません。
そして、病気や怪我、大切な人の死など、その当たり前の日常を手放さざるをえないとき、初めて自身の人生のあり方を見つめ直す私がいます。
私はこの言葉を、「亡くなる人もいるんだから、生きてる人は一生懸命がんばりましょう」という言葉としては受け取っていません。
当たり前を生きる私に、「当たり前のことなんて何一つないんだ」ということを突きつけてくれる大切な言葉として受け取っております。
そこから、見えてくる生活は、当たり前を生きていたときの生活とは、大きく違うものとなり、私たちに大切な視点を与えてくれるのではないでしょうか。

この言葉を初めて見たのは、飲食店のトイレに貼ってあるところでした。
一見すると、ふざけた言葉に見えてしまいますが、これは非常に仏教的な言葉だと思います。
お釈迦さんは生まれたときに、「天上天下唯我独尊」と言われました。これは、天上天下にただ一人の、誰とも代わることのできない人間として、 すべての人間はこの「いのち」のままに尊いということです。
しかしながら現代は、一人の人間を、あたかも変わりがきくかのように扱っているのではないでしょうか。
お金を持っているから尊いのでなく、外見がいいから尊いのでなく、仕事ができるから尊いのでなく、「いのち」そのものが尊いということを決して忘れてはいけません。
そんなことをふまえてもう一度この言葉を見ると、決してふざけた言葉ではなく、「あなたはあなたのままでいいんだ」「誰とも代わりのきかないいのちを生きているんだから、比べる必要はない」と伝えてくれている気がします。

私たちは「今」にどれだけ思いを巡らせられているでしょうか?
気がつけば、「なぜこうなったのか」と言いながら過剰なまでに「過去」に執着していませんか?
あるいは、「こうなればいいのに」と過剰なまでに「未来」に憧れてはいないでしょうか?
もちろんそう考えることは自然なことですが、 これらのことを必要以上に考えすぎてしまうと私たちは「今」を忘れてしまいます。
仏教は、過去と未来のことで頭がいっぱいの私たちに、「今」を教えてくれます。
亡くなった人に思いを馳せながら、たくさんのいのちの繋がりを感じながら、確かに「今、私はここに生かされてる」と。そう思うとき、過去も未来も置き去りにして、大事な気づきを与えてくれます。
しかし、人間には欲があります。その欲が膨れ上がるとたちまちに、 「今」を見えなくしてしまいます。
大事なことは、日々の生活の中で、手を合わせる時間を大切にすること。
それはつまり「今」を見つめる時間を大切にすることになるのだと思います。

「お陰さま」という言葉は、「陰」に「お」「さま」をつけて、「陰」を敬うように言葉ができています。
「陰」は「光の当たらないところ」や「目立たないところ」のことをいうのですから、私たちの生活は、光の当たらない、目に見えてこないところに支えられているということが、「お陰さま」という言葉で表されているのではないでしょうか。
人と人は気づかないところで繋がりあって共に生きているということ、また過去から続く「いのち」の繋がりの中で私たちは生きているということが、「お陰さま」には含まれているのだと思います。
近年、「お陰さま」という言葉は、昔ほど使われなくなっています。それは私たちの生活が、目に見えるところばかりで頭がいっぱいになってしまっていて、 見えないたくさんの繋がりに支えられていることを、忘れてしまっている証拠かもしれません。

私たちは、長い短いという数字で、人生の良し悪しを決めてはいないでしょうか?
つまり、「どれだけ生きたのか?」「何歳まで健康だったのか?」「最後まで人に迷惑をかけずに生きられたか?」等でいのちの良し悪しを判断してはいないでしょうか?
この言葉は、長い短いだけでなく、「幅」と「深さ」も合わせて人生であることを伝えてくれています。
このときの「幅」は 「何を大切に生きるのか?」 「深さ 「深さ」は「このいのちをどのように受け取っていくのか??」ということかもしれません。
長い短いという数字でいのちの良し悪しを決めてしまいそうになる私たちに、そうではない、幅と深さも合わせて「いのち」と向き合っていきなさい、とこの言葉は教えてくれているような気がします。

私が私となった背景を知る
それが恩を知るということである

以前、とてもお世話になった住職さんが亡くなりました。
お悔やみに伺ったとき、 亡くなられた住職の字で、 この言葉がお寺の掲示板に貼ってありました。
私たちは花を見てキレイだと思いますが、その花が咲くに至るまでにどれだけの縁が花を咲かせたのでしょうか。
鳥が種を運び、ミツバチが受粉をし、太陽の恵みを受け、雨にうたれ、耕された大地の上で花が咲く。
つまり、この世界のすべてが縁となり、一輪の花を咲かせるのです。
種を植えたから花が咲いたという単純な話ではありません。
人間においても同様です。 私がここに至るまでにどれだけの縁が私を育てたのだろうか。そこに立ち止まって思いを馳せてみる。
人と出会い、人と別れ、たくさんのものに支えられ私は確かにここにいる。
私という花はどうやったら美しく咲きほこれるか。
それは根元の恩を感じて生きることなのかもしれません。

あるお笑い芸人の方が、「勝ち組とか負け組とか、そんなことを気にしてない人が本当の勝ち組でしょうね。」と言っていました。 この言葉には、とても考えさせられます。
近ごろは、人を収入や資産や学歴等で優劣をつけていく傾向があるように思います。
しかし、そうやって優劣をつけているはずの私自身が、気づけば次第に追い込まれていくことはないでしょうか。
つまり、私が境目を作って、人を振り分けるその心が私自身をも振り分けてしまい、日常生活を生き苦しいものとしてしまうのです。
仏教では人と人との間に境目などないと説きます。人間は、平等のいのちを生きており、「勝ち組」「負け組」等、優劣をつけていいような存在ではありません。
最後に、浄土真宗における仏教の受け止め方として、知らず知らずのうちに人を振り分けようとしてしまう私の心のあり方を、何度も何度も問い続けていくということを大切にしております。
この問い続けていくところから、自分も他者も隅っこに追いやらない生き方が見えてくるのかもしれません。

本当の幸せが遠いのは自分一人だけのことに止まっているから

私たちは、日本人としての誇りを持ちすぎると、他の国の人を劣ってみるようになるでしょう。
この社会が、男らしく生きることを重要視する社会なら、女性や性的マイノリティの人が隅っこにおいやられるでしょう。
私が信じているものを人に押しつけるとき、この神様こそが正しいのだと、人々は争いあい、たくさんの血が流れるでしょう。
他にも、肌の色や生まれた地域や職業等、差別や偏見はあらゆるところに蔓延(はびこ)っています。
でも、そもそも私たちは同じ星で暮らす地球人。
「私は地球人の○○(名前) です。」
時には、これくらい大きく名のってみるのも大切かもしれません。
違いを認めることができずに、争うことが、馬鹿馬鹿しく思えてきませんか?
私たちはもっと地球人として生きればいい。
もし、いつか宇宙人が出てきたときは、その星の人を排除しないように、そのときはまた名のり方を考えればいい。
それくらい優しく大きく生きてもいい。

皆様にとっていい天気とはどんな天気でしょうか?
多くの方は「晴れ」とお答えになると思います。しかし、その人の置かれている立場が違えば答えも変わります。
私たちは、それぞれに判断基準を持っていて、それは現在の立場や育った環境に応じて、一人一人違うものです。
つまり、すべての人に共通する「正しいこと」もなければ、すべての人に共通する「悪いこと」もないということです。
このことを踏まえて、「共に生きる」とはどういうことなのか。これを考え続けていくのとが大切なのだと思います。
「私の正しい行為は、相手にとっても正しい行為である。」という勘違いから、人は傷つけ合うのかもしれません。
「わかりあえない」ということを出発点として歩んでいく。
そこに違いを認め合いながら歩む道があるのだと思います。

「叱る」と「怒る」 は非常に似た言葉ではありますが、実はこの二つの言葉には大きな違いがあります。
それは、言葉の中に相手(他者)がいるかどうか、ということです。
近年、「叱る」以外にも他者を含む言葉が失われている気がします。
「生かされてる」
「有難い」
「お陰さま」
「お互いさま」
「もったいない」等の言葉は、悲しくも聞こえなくなってきました。
そして、増えてきた言葉は、
「自己責任」
「自助努力」
「勝ち組負け組」等。
残念ながら、これらの言葉に他者は含まれておりません。
あなたの中に他者はいますか?
あなたの話す言葉の中には他者は想定されていますか?

この言葉は、芸術家岡本太郎の言葉です。
岡本太郎は、活動の場が様々であるがゆえに、「何が本職なのか?」と問われることも多かったのですが、 その答えは、『人間———全存在として猛烈に生きる人間』 でした。
みなさんの本職は何ですか?
「会社員」「専業主婦」「教師」「警察官」など、それぞれのお仕事があると思いますが、ここに「本職は人間だ」とあるように、一度立ち止まり、「仕事」と向き合うように「人間」と向き合ってはいかがでしょうか。
すると、「人間って何だ?」「なぜ生まれた?」 「私は何者?」「いのちとは?」等、あらゆる問題に行き当たります。
人間が「人間」について考えていくときに沸き上がるエネルギーこそ大切なんだと、数々の芸術作品を通して、岡本太郎は伝えてくれているのかもしれません。

ここでいう「善人」とは、「」優しい人」「ボランティアをする人」をいうのではなく、「自分こそ正しいと思い、正義を振りかざす人」をいっています。
誰のことかというと、 私自身にも思い当たる節があります。自分は正しい、自分を否定する者は間違っていると思いがちな私たちです。それを改めるのが一番難しいのも私たちです。
親鸞聖人は、こういう人のことを、自(みずか)らを善(よ)しとする人という意味で、善人と呼んでいます。誤解のないようにいいますと、 善いことをしない方がいいという意味ではないのです。
「善い事=自分の事」としてしまいがちな私たちを見つめ直すための言葉だと受け止めたいと思っています。
そして、これは家庭に限った話ではないのです。
この世界は、自分こそ正しいと思っている偽りの善人が正義を振りかざし、 今日も争い事が絶えないのです。